戦争論〈上〉

2007年6月15日 読書
きょう二枚目の記事。

この本じゃないですが、「戦争論」衝動買いして、つい最近途中で
放置していたのを読み返しました。

クラウゼヴィッツの戦争観ってなんか好きです。
いわく、

・「平和な時代は、戦争と戦争の間の間奏曲である」
・「戦争は政治に近い」


などなど。沢山あるからあえて2点。

まあ現代の平和主義者がきいたら怒りそうな内容も多々ありますが、
私はむしろこっち派ですね・・・。
少なくともクラウゼヴィッツが生きていた時代までの歴史を振り返ったら、
確かに一個目は当たってるし。

むかしの騎士戦争は比較的穏やかなものだった、という記述もあります。
とりあえず攻め入って相手の都市を燃やして家畜とか略奪したらさあ帰ろうか、みたいな。
まあそうは言っても敵兵の首くらい軽く飛ばしたんでしょうけども。
それが一転して虐殺を徹底するのは、異教徒との戦争だったそうですよ。

なんかこう、思想が違うと存在がムカつくとかそういう心理ですかね。
よくわかんないけど。

ああ。

でも。


こう書くとなんか叩かれそうですが、私は何ていうか、別に戦争自体が嫌いじゃないのです。

人がまとまってしまってる以上必然というか、起こさない努力は可能だけれども
全世界単位では絶対どこかで起こるだろうなと。
っていうか宗教がある限り絶えないだろうなと。

いやそうじゃない。

例えば今この瞬間に爆弾落とされて即死したとしても、恨めないんです。

国に属して国の恩恵を受けるからには、国どうしの怨恨が国民に向けられるのは
当然であろうし(現に北朝鮮の上層部とか善人居なさそうだと思ってるし)
だったら仕方ないなぁー・・・と。
諦観でもあるけど。

だから「お前は自分や家族や友人がすべて殺されても戦争を嫌いだとは
言わないのか」と詰め寄られたとしても、「イエス」と言うことは出来る。
私の友人(だけ)を例えば殺されたとして、国ごと恨むなんて器用な真似っていうか
でかい怨嗟の念、私ごときじゃきっと持ちきれないと思うから。

同様に、「人間同士で殺しあうなんて馬鹿みたい」って意見もまっとうなようでいて
微妙に間違ってると思う。
その【馬鹿】を国のトップにしたのはシステムがどうあれ結局国民もしくは
国民の親?その上?の世代の責任だから。
じゃあこどもは罪が無いじゃないかといえば確かにそうなんだけれど、
仮にそのこどもが成長した人間がその世代だったとして、果たして戦争をしない政治家を
選べた保障があるのか。
というより、そうできるような教育を、【馬鹿】を選んじゃった人たちが
行えなければ、結局ループじゃないのか。
今の日本がこういう国になれたのは、あくまでも戦争をおこして負けて、
懲りることが出来たからだと思う。
もし勝ってたらまだきっとやめてないよ。
軍国教育ぐるぐるエンドレスだよ。

本当に「人間どうしで〜」って言っていいのは、戦争を一度もしていない国の、
投票に毎回かかさず行ってる人だけなんじゃないかな。

あと、人をどう使うのか、条件をどう見るのか、どうしたら相手の上をいけるのか、
そういう思考って結構好き。
「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」でなくって、
「ナンバーワンかつオンリーワン」のほうがいい、そんな思考。
別にナンバーワンになる努力を放り出す必要は無いというか。
そもそもオンリーワンって目指すもんだっけ?みたいな。

別にあの曲がどうとか言う気はないですけどね。概念の問題で。

だから「戦争論」に挙げられてる勝利の要素とか良い将の条件とか、
本当に面白いです。
祖国に見殺しにされたハンニバルもそうなんだけど、賢い人って本当に賢いですよね。
歴史を戦争の視点で見ると、なんか、「ああこれは人間の歩みだな」って
気がする。感覚だけど。

自分と真逆のタイプとはケンカしないです。
というより、小6〜中1くらいの自分の性格と似た人と反発しあうことが多いのかも。
小学校からの自分を考えると。

あれ?私、自分が昔から敵?

それはもしかしたら国どうしでも同じことで、なまじ神様を信じる真摯さとか、
「さあこの宗教に入って一緒に拝もう」って同化願望とか、
あるいは領土欲とか、そういう似通った部分があるから争うのかもしれない。

もし世界中の宗教がちょっといい加減なら、多分イェルサレムがどっちのものかで
喧嘩しないんじゃないかなー。


・・・などと、世界中の宗教者と平和主義者を敵に回す発言をしてみる。
本心だけど。

ニュースで我が家にも布教に来ていた某宗教が騒ぎ起こしてたのを見たのでした。

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